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秘湯という言葉に厳密な定義はありません。ただ、そう呼ばれる湯には共通点があります。
行きにくいこと。そして、その行きにくさが景色と静けさを守ってきたことです。
半年だけ開く宿がある
滑川温泉の福島屋は、山形県米沢市の谷底に建つ一軒宿です。日本秘湯を守る会の会員で、宿は「加水・加温・循環なし。3本の自家源泉をそのまま楽しむ山の一軒宿」と名乗っています。
この宿は冬に開きません。理由は身も蓋もなく、除雪車が入らないからです。宿は「滑川温泉福島屋までは除雪が入らないため、冬季間休業いたします」と告知し、2026年度の営業を4月26日から11月4日までとしています。
同じ米沢の姥湯温泉も、深い雪のため営業は4月下旬から11月上旬。秘湯と呼ばれる宿には、この「半年しか開かない」型がいくつもあります。行きにくいのではなく、半年は行けない。予約の前に、まず営業期間を確かめる必要がある宿です。
行き方そのものが行程になる
祖谷温泉では、湯に入るまでにケーブルカーに乗ります。宿は谷の上、湯は谷底。高低差はおよそ170メートルで、片道5分ほどかけて下ります。
源泉が谷底で湧いているので、そこまで下りるしかなかった。演出ではなく、地形への対応です。上がってまた戻るところまで含めて、この宿の湯になっています。
酸ヶ湯は八甲田の山中に一軒だけ建っています。周囲に集落はありません。青森駅からバスで70分、東京からは合計5時間ほどかかります。
バスの本数から逆算する
秘湯と呼ばれる湯に共通する実務が、交通の薄さです。
乳頭温泉郷は田沢湖駅からバスですが、本数が限られます。十津川温泉は五条駅から2時間30分、日本一長い路線バスとして知られる区間の途中にあります。祖谷は大歩危駅からバスで30分。
いずれも、帰りの便から逆算して行程を組むことになります。時刻表を先に見ないと、着いたはいいが出られないということが起こります。
宿の送迎があるかどうかも大きく効きます。問い合わせておく価値があります。
道が細い、冬は閉ざされる
車で向かう場合の条件も見ておきたいところです。
祖谷渓は道が狭く曲がりくねっており、対向車とのすれ違いに気を使う区間があります。運転に慣れていないと負担があります。十津川へ向かう国道168号は、雨量による通行規制がかかることがあります。
万座は標高およそ1,800メートルにあり、草津へ抜ける志賀草津高原ルートは冬季閉鎖されます。加えて草津白根山は活動する火山で、規制がかかることがあります。白骨や酸ヶ湯も、冬は道路状況の確認が要ります。
冬に道が閉じる湯
玉川温泉は八幡平の山中にあります。田沢湖駅からバスで90分ほど、本数は限られます。
冬季は道路が閉鎖されます。営業形態が変わり、経路も限られます。訪れる前に必ず状況を確認してください。
高湯温泉は吾妻連峰の中腹にあり、こちらは通年で行けますが、山道を上がることに変わりはありません。福島駅からバスで40分、便は限られます。
いずれも、行ける季節と行けない季節がはっきり分かれる湯です。
その不便さが守ってきたもの
行きにくさは欠点として語られがちですが、結果として残したものがあります。
祖谷では、谷底の湯に浸かって聞こえるのが川の音だけという状態が保たれています。簡単に行ける場所では成立しません。
十津川村が2004年に全国で初めて源泉かけ流し宣言を出せたのも、湯量に余裕があるからです。人が押し寄せる場所では、そもそも湯が足りません。
乳頭温泉郷は七軒がブナ林に点在するだけで、温泉街と呼べるものがありません。万座には街の灯りが一切なく、夜は星がよく見えます。
湯が強いことが多い
秘湯と呼ばれる湯には、成分の濃いものが多くあります。
酸ヶ湯は強い酸性泉、万座は硫黄の含有量が国内最高水準とされます。白骨と乳頭は白濁して底が見えません。
中ノ沢温泉は安達太良山の噴火口近くに湧く沼尻元湯を7キロ引いた湯で、pH1.7から2.1の強酸性ですが、長いパイプで揉まれて届くため肌当たりはシルクのようだと温泉郷は書いています。鎌先温泉は鉄分を含む茶色のぬる湯で、加水も循環もせずに使う宿があります。
- 酸性泉・硫黄泉は長湯を避け、湯上がりに真水で流すと負担が軽くなります
- 銀製品は硫黄で変色します。外してから入ってください
- 白濁する湯は段差が見えません。足を探りながら入ってください
- 混浴の形をとる湯があります。女性専用の時間帯や別浴槽の有無を確認してください
川と一体になっている湯
奥津温泉の湯は、吉井川の川底から湧いています。流れのなかに源泉があり、その上に浴槽を設けた湯があります。底から湯が上がってくるので、足元の砂が動きます。
川底から湧くということは、増水の影響を受けるということでもあります。雨が続けば入れない湯があります。
この土地には足踏み洗濯という風習が伝わります。川辺で湯を使い、足で衣類を踏んで洗う。手ではなく足を使うのは、川に背を向けず立ったまま作業するためだったとされます。かつては熊などの獣が出る土地でした。
津山駅からバスで60分ほど。本数は限られます。
一軒宿という形
法師温泉は三国峠の麓の谷に、長寿館という宿が一軒だけ建っています。温泉街はなく、上毛高原駅から町営バスを乗り継いで向かい、法師温泉行きのバスは午前2便と午後2便しかありません。明治28年築の湯殿で、浴槽の底の玉石の間から湧く湯に浸かります。
肘折温泉は山形の豪雪の谷にある1200年の湯治場で、冬を除く毎日、早朝5時から朝市が立ちます。新庄駅からバスで60分。どちらも、行きにくさがそのまま湯の性格を守っています。
蔦温泉も南八甲田のブナの森に蔦温泉旅館が一軒だけ建つ湯で、青森駅からバスで2時間かかります。源泉の上に浴槽を置き、底板から湧く湯に浸かります。冬は青森側から八甲田を越える道が閉じ、十和田市側から入ることになります。
寸又峡温泉は静岡県の最北部にあり、大井川鐵道の一部が台風で不通のまま代行バスで結ばれています。千頭から先はさらにバスで40分の山道です。その先に、トルコブルーのダム湖と夢のつり橋があります。
小谷温泉は国道148号から山道を10キロ上がった標高850メートルに、大湯元の山田旅館が一軒だけ建ちます。南小谷駅から村営バスで40分。裏手から適温で湧く湯を加水も加温もせずにかけ流し、木造6棟が文化財です。さらに15分上がった奥の湯には、ブナ林の中の村営露天風呂があります。
みくりが池温泉は立山・室堂平の標高2,410メートルにあり、日本でいちばん高い場所の温泉です。マイカーは入れず、アルペンルートの乗り物を乗り継いで室堂から15分歩きます。アルペンルートの開通期間だけの季節営業で、冬は閉じます。
大牧温泉は庄川峡のダム湖の岸に一軒宿が建ち、道はつながっておらず、小牧の船着場から遊覧船で30分の道だけで着きます。最終便は16時、冬は15時20分です。
扉温泉は松本の東、薄川の上流の標高1,050メートルの国定公園に明神館が一軒だけ建ち、1931年の湯治宿が今はルレ・エ・シャトーに加盟する宿になっています。松本駅から宿のシャトルバスで40分ほど、秘湯の道のりで着く先が静かな高級宿という例です。
宝川温泉は利根川の最上流に汪泉閣が一軒だけ建ち、470畳の露天風呂に毎分1,800リットルをかけ流します。一軒宿でも規模の大きい秘湯があり、水上駅からバスで35分です。
姥湯温泉の桝形屋は、道が細いことで知られる秘湯です。山形県米沢市、吾妻連峰の北側、標高1,300メートルの谷間にあり、三方を奇岩の絶壁に囲まれています。峠駅から車で30分ほどですが、曲がりくねった山道で未舗装の区間もあります。岩壁から噴き出す湯口は六か所あり、宿が使うのはそのうち一本だけで、残りは川へ流れ落ちています。営業は4月下旬から11月上旬。冬は雪に埋もれて閉まります。
泥湯温泉の奥山旅館は、山奥のわずかに開けた小盆地にあります。秋田県湯沢市、明治の温泉宿として栄えた古い湯で、新湯・天狗の湯・川の湯という三つの源泉を浴槽ごとに引き分けています。近くには草木の生えない白い山肌が広がる川原毛地獄があり、恐山、立山と並ぶ日本三大霊地のひとつとされます。大露天風呂は積雪のため11月から5月下旬は休みです。
丸駒温泉は、支笏湖の北岸に一軒だけ建つ宿です。北海道千歳市、恵庭岳の麓で、道路が通じる前は船でしか行けませんでした。足元から湯が湧く天然の野湯があり、浴場と湖を岩場で隔てただけの造りのため、湯の深さが支笏湖の水位と一緒に季節で上下します。全国でも約20か所しかないといわれる足元湧出湯です。新千歳空港から車で50分という近さでありながら、着けば湖と山しかありません。
虹岳島温泉の虹岳島荘は、湖の岸に一軒だけ建つ宿です。福井県若狭町、三方五湖の中央にある水月湖の岸で、周りの民家からは離れています。百年以上前の合掌造りの古民家を移築した建物で、茅葺きの門をくぐると玄関に日本秘湯を守る会の提灯が下がっています。25室はすべて湖に面し、湖の形に沿って長い渡り廊下が曲がっています。湯は単純弱放射能冷鉱泉で、宿が会に登録した情報では源泉温度15度、加温あり。少し温めの湯に浸かりながら、渡ってきた水鳥を眺める宿です。JR小浜線の気山駅から3キロ、送迎があります。
湯ノ本温泉の平山旅館は、船に乗らないと行けない秘湯です。玄界灘に浮かぶ壱岐島の北部にあり、博多港からジェットフォイルで1時間、フェリーなら2時間20分。港から宿までさらに車で20分かかります。自噴69度の鉄分を含む塩の湯が、空気に触れて赤茶けた鉄錆色に濁ります。冬は船が欠航することもあるので、往復の便を先に押さえてから宿を取ることになります。
松川温泉は八幡平の原生林の谷に4軒の宿が点在し、盛岡駅からのバスは1日2本です。硫黄が強くてボイラーを置けず、シャワーのない宿があります。西山温泉は早川の渓谷にある世界最古の宿の湯で、身延駅から宿の送迎バスが1日1便、悪天候で県道が閉じることがあります。
湯が変わったことを、隠さずに書く宿
秋の宮温泉郷の鷹の湯温泉も会員宿です。この宿の公式サイトには、温泉宿としてはあまり書きたくないはずのことが書いてあります。
「鷹の湯は当初より泉温80度以上の熱い温泉でしたが、2021年の夏頃、源泉の温度が30度近くにまで低下する原因不明の現象が起こりました」。創業以来ボイラーを持たずに自然の湯を引いてきた宿だったため、温度が下がれば湯を出せません。宿はクラウドファンディングで資金を募り、加温の設備を整えました。
温泉は自然のものなので、変わることがあります。変わったときに何をしたかまで公表する宿は多くありません。秘湯を守る、という言葉の中身は、こういうところに出ます。
会に入っているのに、秘湯らしくない宿もある
日本秘湯を守る会の会員宿を眺めていると、一般に思われている「秘湯」の姿から外れる宿がいくつもあります。
銀山温泉の能登屋旅館は、大正時代の木造三階建てが並ぶ温泉街の真ん中に建ち、建物は国の登録有形文化財です。冬はガス灯が灯り、観光客が絶えません。それでも会員宿です。白布温泉の西屋は米沢の茅葺きの湯宿、筋湯温泉の喜安屋は九重の温泉街の宿、男鹿温泉郷の元湯雄山閣は海辺の温泉郷にあります。
祖谷温泉のホテル祖谷温泉はケーブルカーで谷底の湯へ降りる宿で、こちらは行きにくさの点でも秘湯らしい。二岐温泉の大丸あすなろ荘は南会津の渓谷の宿で、自然石をそのまま使った岩風呂を持ちます。須川高原温泉は栗駒山の八合目、標高1,126メートルに建ち、冬は雪に閉ざされて半年しか開きません。
この会が見ているのは、立地の不便さだけではなく、湯をどう守っているかのほうです。だから温泉街の真ん中にある宿も入ります。
泊まる前提で組む
秘湯を日帰りで往復すると、移動が行程の大半を占めます。
白骨は松本からバスで一時間以上、十津川は大阪から4時間30分。着いて湯に入ってすぐ帰る、では何のために行ったのか分からなくなります。
一泊すれば、夜と朝が手に入ります。人工の光がない場所の夜と、誰もいない時間の湯。これらは日帰りでは得られません。
行きにくい場所へ行くなら、時間のほうを合わせるしかありません。














































